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時事考察のメモ

時事考察のメモ

和歌山毒カレー事件の再審請求ついて

 実際に訴訟記録を見たわけじゃないから断言はできないけど、おそらく認められないと思うんですよね。

 

 弁護団としては林死刑囚の自宅にあったヒ素は事件と無関係だという主張なのでしょう。

わかやま新報 » Blog Archive » カレー事件から18年 支援団体が大阪で集会

和歌山毒カレー事件、再審可否を29日に決定 地裁が関係者に通知 - 産経WEST

 

 しかし、裁判所は自宅にあったヒ素がカレー鍋に入れられたと断定したわけでありません。
 
 最高裁の判決によると、
上記カレーに混入されたものと組成上の特徴を同じくする亜砒酸が,被告人の自宅等から発見されていること

http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/539/037539_hanrei.pdf

としてしています。
 ここで、自宅「等」とされているは、自宅以外からもヒ素が見つかっているからです。いずれも林死刑囚の親類の家や旧宅のガレージなど林死刑囚が入手できそうな場所のものです。
 そして、1審判決によると、自宅のものを含めたいくつかのヒ素のうちどれかがカレーに投入されたという認定です。

http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/418/007418_hanrei.pdf

 ですから、自宅にあったヒ素がカレーに混入されたヒ素と異なるということを主張しても、自宅以外から発見された他のヒ素の混入も念頭に置いている判決に対する論理的な反論になっていません。再審請求は認められないと思います。

 


 ところで、この事件ではカレー鍋と会場付近から見つかった紙コップとからヒ素が検出されています。このことと、ヒ素自体が希少なものであることとをあわせて考えれば、この紙コップからカレー鍋にヒ素が入れられたと推認できます。
 ここで、1審判決では、自宅等から見つかったいくつかのヒ素のうちのどれかが紙コップを通じてカレー鍋に混入されたという認定になっています。

 このような、どれかという概括的な認定がされた理由は、当時の被告人が黙秘していたためです。
 紙コップにヒ素が入れられるまでの経緯については、犯人がしゃべらなければ真実はわかりません。
 自宅等にあったヒ素の保管状況についても、林死刑囚が黙秘していた以上わかりません。

 このような、自白がなければ通常立証できない紙コップにヒ素を入れるまでの経過についてまでも立証を要求すると、かえって司法が自白に偏重することにもなりかねません。裁判所もこの部分の認定に固執していません。このことは、動機が不明なままでの有罪認定にも共通します。

 あくまで、有罪にするために必要な立証とは犯罪事実の立証です。それは犯人が人を殺したことであり、具体的には犯人がカレー鍋にヒ素を混入したことです。自宅等のヒ素が紙コップに入れられる経過についてまでを立証する必要はないのです。

 ただし、当然ですが、自宅等のどれかのヒ素を紙コップに入れたことを立証する必要はあります。自宅等のヒ素と紙コップやカレー鍋のヒ素との同一性を認定できれば、犯人が自宅等から紙コップにヒ素を移したといえそうです。そして、自宅等のヒ素を犯行に使えたのは林死刑囚だったと認定できそうです。
 

 まあ、個人的には、普通はヒ素なんて手に入らないし、証拠上、具体的にカレー鍋にヒ素を入れる機会があったのは林死刑囚だけですから、次に述べる鑑定がなくても有罪が立証できていたのではないかと思います。この鑑定が有罪の大きな根拠になっていたかは疑問です。ダメ押し程度の証拠価値だったようにも思えます。
 

 1審判決によると、自宅等にあったヒ素と、紙コップやカレー鍋から見つかったヒ素との同一性は鑑定に裏付けられているようです。

 しかし、弁護団の鑑定人はこれを批判しています。例えば、自宅にあったヒ素を紙コップに移したとたんにヒ素の濃度が上がったことになるので、自宅のヒ素と紙コップのヒ素とは同一性がないという主張などです。
 ヒ素の同一性の鑑定について、弁護側の鑑定人はどうも誤解している様子です。
 
 仮に自宅から見つかったヒ素は混ぜ物がされて濃度が低かったとします。
 そのヒ素を紙コップですくったにもかかわらず、紙コップから検出されたヒ素の方が濃度が高くなるというのは物理的に成立しないということでしょう。
 しかし、この推論は弁護側の鑑定人の予断に基づくものです。

 すでに述べたように、紙コップにヒ素がはいるまでの経緯は、自宅等のどれかのヒ素が入れられたこと以外は認定されていません。

  ですから、自宅から見つかったヒ素に混ぜ物がされたとして、そのタイミングも不明なのです。

 ということは、自宅に濃度の高いヒ素を持ち込んで保管を始めて、その濃度の高いヒ素を紙コップに分け、後に自宅で保管するヒ素に混ぜ物がされたのだとしても、矛盾はありません。つまり、弁護側の鑑定人の指摘は予断に基づくもので論理的な批判になっていないのです。

 (林死刑囚はヒ素を使った保険金殺人未遂の前科がありますが、その時点までは自宅のヒ素に混ぜ物がされておらず、保険金殺人の後、自宅のヒ素にシロアリ駆除のためと言い逃れをするために混ぜ物をしたが、次の保険金殺人または今回の事件に備えてあらかじめ紙コップに純度の高いヒ素を確保しておいたというストーリーも成立しうるのです。)
 そもそも、犯行に使われたヒ素が自宅から持ち出されたと断定されているわけでもありませんし。 

 この事件のように被告人が黙秘しているため事実認定が概括的になっている場合、ヒ素の濃度などの後から手を加えられる部分を含めて同一性を認定しようとすることは無意味な場合が多いのです。こういう事件の場合、ヒ素の同一性とは、後から操作することができない部分、つまり、製造段階での不純物が同じだという起源の同一性が重要です。それがいえれば、自宅などのヒ素を紙コップに入れたと事実認定する際に、組成という観点から矛盾がないことを裏付けられたと評価できます。

 法律家は鑑定人に鑑定結果が持つ意味と鑑定人がそう考える科学的根拠を問い合わせはするでしょう。しかし、法律家が鑑定人から得た知見を裁判でどのように事実認定に利用するかは、ほかの証拠との関係も考えて評価する必要があります。ですから、組成という観点から矛盾がないという鑑定結果をどう評価するかについては、基本的に鑑定人ではなく法律家が責任を負う事柄のように思います。弁護側の鑑定人の批判は的外れなように感じます。

 実際、1審判決も検察側の鑑定を製造段階での同一性認定に使っているし、最高裁も組成上の特性を同じくするとして、自宅等のヒ素が紙コップに入れられたという事実認定をするうえで、その考慮要素の一つとしてしか鑑定結果を評価していないようです。裁判所が検察側の鑑定人の結論をうのみにしたせいで冤罪が起きたという筋書きには無理があると思います。

 


 最後に、弁護団の主張を前提にすると、林死刑囚以外の人間がカレー鍋にヒ素を混入したことになります。カレー鍋からヒ素が見つかった以上入れた人間がいるはずです。
 しかし、林死刑囚以外の犯行は考えにくいことです。
 1審判決によると、カレーなべにヒ素を混入できる具体的な可能性のある人間は林死刑囚以外3人です。
 ちなみに、この3人は自分の家族がヒ素入りカレーを食べて中毒を起こしているという点で、ヒ素を混入しない動機があります。加えて、ヒ素との接点がなく入手できないと考えられます。

 加えて以下の理由からも第三者による犯行説は抽象的な可能性のように思います。

 そのような第三者が存在したとすると、その人は林死刑囚を含む祭りの参加者の記憶にとどまることなくカレー鍋にヒ素を混入したことになります。

 しかも、その人は、大量殺人をもくろむ人で、地域の祭りのカレー鍋にヒ素を混入するという手段を選び、入手しやすいとはいえないヒ素で犯行を行ったと考えるのが一番あり得そうな筋書きです。

 抽象的な可能性というのを別の表現にすると、十分嫌疑があるといえる林死刑囚の有罪を、このような偶然が重なった可能性があるとして覆すのは常識的ではないという表現になるかもしれません。

 


 以上より全体的に再審請求の理論構成は無理があるのではないかと思いました。